『若者殺しの時代』(堀井憲一郎)

ちょっとどうかと思うほど仕事に集中できない。いや、集中してないのは今に始まったことじゃないんだが、その、程度がね。まあヒマだからいいと言えばいいんだけどさあ。いや、アレだ。ヒマじゃないんだが、金が入ってこないのだ。まあそれはいい。


それで。本書を読もうと考えたのは、先日私が、素人童貞だというのを書いた時だった。ふと「そういや、堀井憲一郎が『セックスがエッチと言われ始めてから何かがおかしくなり始めた』という意味のことを『週刊文春』で書いていたなあ」と思い出したのだった。それで、図書館に行って借りてきた。2006年に講談社現代新書から出ている。


堀井憲一郎は、昔テレビにもちょろっと出てたりしたけど、ライターというかコラムニストです。「週刊文春」で『ホリイのずんずん調査』という連載コラムを持っている。あとは、ディズニーランドの本なんかを書いていたりもする。早稲田の漫研出身で、映画評論家の町山智浩さんの2年先輩だということを、本書で初めて知った。


内容はですね。現在は、ベビーブーマーのジジイどもが考えるほど「最早若者であることが得である」時代ではないのだ、ということを、なぜそういう事態になったのか、いつそういう事態になり始めたのかを探ることで説明しようとする、というもの。


なぜ若者であることが得でなくなったのか。長くなるが引用してみる。


 「おとなにとって、若い連中とは、社会で落ち着く前に少々あがいてるだけの、若いおとなでしかなかったのだ。その後、『若いおとな』とはまったく別個の『若者』という新しいカテゴリーが発見され、『若者』に向けての商品が売られ、『若者』は特権的なエリアであるかのように扱われる。若い、ということに意味を持たせてしまった。一種のペテンなのだけど、若さの価値が高いような情報を流してしまって、とにかくそこからいろんなものを収奪しようとした。そして収奪は成功する。」


別のページで堀井憲一郎が述べているように、昔の社会は若者を見逃してくれていたのだ。でも、「三種の神器」だの「いつかはクラウン」だの「3C」だのと言ってたら、いつの間にか皆がそれを手に入れちゃって、売りつける相手がいなくなっちゃったんだよ。多分。そんで、誰か、というかまあマスコミとか代理店とかが「若者」を作っちゃったんだな。


その代表例はクリスマスだ。今やクリスマスと言えば「恋人とちょっといい夕食を食べて余裕があればどっかに泊まって性交して一緒に過ごす」ものだと理解されているが、そんなことが日本で始まった(というか仕掛けられた)のは1983年のことなんである。最近だ。それは堀井憲一郎によれば、「an・an」で「クリスマス特集 今年こそ彼の心(ハート)をつかまえる!」という特集が組まれた時から始まったのだ。


その特集は相当エポックメイキングなものだったようだ。クリスマスの商品化が始まったのはこの記事から、ということだ。ただ、その対象には女性が選ばれた。男性誌はと言えば、こういう類のクリスマス記事が載り始めるのは1987年だ。クリスマス拡大のピークは1990年で、その頃にはあまねく「クリスマスは恋人同士で過ごすものだ」というテーゼが日本に浸透していた。


著者は、それを「クリスマスファシズム」と呼んでいるが、未曾有の不況を何とか抜け出して、そしてちょっとマシになったかと思えばまたダメな感じの経済状況下の2010年でもその言葉はまだ一定の意味を持っている。80年代末から90年代初頭にかけての浮かれた雰囲気の中でのファシズムの蔓延はいかばかりだったか。私は、バブルの時に「若者」だったとしてもどうせ一緒に過ごす相手もいなかったであろうから、そういう世代に生まれなくて良かったと言えるのかもしれんのー。


勿論、この「クリスマスファシズム」はあくまで一例で、他にも色々と引合いに出されてます。主なとこだと、バレンタインデー、ディズニーランドの聖地化、コンビニの萌芽と台頭、おたくの出現、恋愛至上主義、性のパッケージ化、携帯電話など。


ちょっと思ったんだが、なぜクリスマスは初めに女性に向けて商品化されたのかと言えば、それは単純に消費者としての伸びしろがあったからじゃないのかな。無論、「若者」は男性でも消費者として有望だと考えられていたとはずだが、女性が本気で消費し始めたらまず男なんか敵わないくらい、女性に関係する「商品」は多い。


今も社会は「若者」に消費させようと相変わらず躍起になっているが、恋愛格差・経済格差が広がる中で、次のギミックは既に動き始めている。ほぼ全ての世代を巻き込むそれは何か。言うまでもなく「エコ」です。純粋で性根の美しい貴方は否定するかもしれない。が、「エコ」が環境保護の皮を被ったただの消費推進プロパガンダだってのはちょっと周りを見りゃ分かる。


環境保護だとか温暖化防止だとかは、日本だけの問題じゃない。つまり、日本(と、他の良心ある国)がいくら頑張ったって、それを何とも思わない国(すぐ近くの○国と、敗戦以来我が国がカマを掘られまくってる△国)がある以上何の意味もないのだよ。


こっちがちまちまエコカー温室効果ガスを減らしてるすぐ横じゃあ、なんっっにも考えずにバンバンガソリン車買って、バンバン河川や海に工場の廃液垂れ流してるんだから、おれたちがちょっと何かやったって意味ねーの!「そんなことやめるように説得すればいいじゃないか」って?あいつ等がおれたちの言うこと聞いたことが一度でもあったか?


そんなことは「エコ」の人はもうとっくに気がついていて、あいつらは「あー、ヤベえ。リーマン何とかのせいで景気悪いわ。どーすんべ。…。あ、地球に優しいってことで何でも売りつけるってのは中々いいじゃんよ」と考えて、「地球のため」という錦の御旗を掲げ、その実単純に私たちに消費をさせようとしている。「エコじゃない」というのは罪悪感を呼び起こすから、ついついこっちも油断しちゃう。


私はなにも、環境保全が悪いことだと言ってるんじゃない。その思想は素晴らしいとは思う。ただ、それを隠れ蓑にしてモノを売りつけてくる野郎どもを利するようなことはどうなんだろうと思っている。


細かく見ていけば、この手の方法による収奪なんて掃いて捨てるほどあるんだろうが、それから完全に逃れることはまあ多分ムリだろう。山奥で隠遁生活でも送る他ないよね。だから、どんだけならそれに目をつぶるのかってことになるのかも。


他にいい方法があるのか、現時点では分からない。でも考え続けよう。