違和感

うまく言葉にできるかどうか分からないが、書いてみる。


一昨日、昨日からネットやTwitterで、こう、様々な「日本人やっぱすげー!」とか「こんな光景を見て感動した」という情報を目にしている。


http://prayforjapan.jp/tweet.html
http://matome.naver.jp/odai/2129985372846288901


事実、略奪とか混乱が少ないのは凄いことではあると思うし、優しい人達が大勢いるのもそうなんだと思う。


不覚にも私はそういう情報を目にして、涙しているわけだ(30を過ぎると涙腺が緩むと言うがアレはどうやら本当らしい)。しかし私は、はたと思った。「はっ!これは震災に『入れ込み』すぎている証拠なのでは?」と。


日本にいる外国人だってちゃんと規律を守って、周りを気遣っているってことも忘れちゃいけないよ。日本には外国人が200万人以上いる。その人たちだって、おれたちと同じようにやってんだ。だから、別にこれは「おれたちだから」できることじゃないんだよ、きっと。


ただ「郷に入っては郷に従え」を実践してるだけだって?じゃあやろうと思えばできるんじゃん。やっぱり。


海外にいる日本人が現地の人にいろいろと心配された、というのもよく目にするけど、それは、そこの人が日本を気にかけてくれているということを示しているだけなのだ。そして、それは素直に嬉しい。しかし、そのことは「おれたちの特権性」を証明するものじゃない。


違和感があるのはこれだけじゃない。何でもかんでも「自粛しろ」だとか「不謹慎」だとか言うのはどうなのよ?


ある芸能人がTwitterで「家族でスーパー銭湯に行った」とつぶやいたのに対し、どっかのバカが「けしからん!」と言ってきたらしい。それまでの一連のつぶやきを読んでいれば、その人が節電し、必要とあればその影響力を使って重要な情報をリツイートしていたのは瞭然なのに。


いや、そもそも、「その(芸能)人は被災地のためになることを直接やっているのだから銭湯くらい行ったってよかろう」という考えすらおかしいのかも。幸運にも被災しなかった我々が(仮に何一つ被災地のためにせず)普通の生活をしていけないことがあるだろうか?だって、一つ行動するのに「これをやったからこれくらいはOK」なんてことやってられないでしょ。復興の手助けをすることと、普通の生活を送ることは別の話だ。


不謹慎連呼野郎どもはどうすりゃいいと思ってるのかね?おれたち素人が全員で被災地に飛んでってボランティアするってか?或いは断食して風呂も入らずテレビの前で眉間にしわ寄せながら気を揉み続けりゃいいのか?おれたちが一人一人自分の仕事を全うして普通に生活することが、やがては復興に繋がるとおれは信じている。


いろんな事情で、寄付やりたくたってできない人だっている。寄付しようがしまいが、節電しようがしまいが、それは個人の自由だ。寄付しない人を見つけて指弾するなんて無意味だよ。そいつの首根っこつかまえて寄付させてそれに金銭の援助以外の意味を持たせることはできない。


全ての不謹慎連呼野郎どもは、大震災という「物語」に酔っているだけなんじゃないのか?この事態は明らかに非日常だ。こいつらは、みんながいい人で、復興に一生懸命で、その人達を心から応援している自分もいい人、という幻想に浸っている。「物語」が大団円を迎えるために、異物は排除されなければならないのだ。ああ、でもそのもう一方で「物語」が永遠に続いて欲しいともこいつらは考えているかもしれない。復興がなったら、下手したらだめな「運動家」になるんじゃなかろうか。


私は、過度に「運動」に入れ込むことなく、そして過度にニヒルになることなく、自分のやりたいようにやる。だから、勿論普通に仕事をするし、酒も飲むし、エッチなビデオも見るし、DOMMUNEも聴くし、キックボクシングのジムにも行くし、ランニングもする。


バカどもは仕事も行かず、せいぜいテレビやコンピュータの前に釘付けになってお祈りでもしてやがれ。