オッス!もう

『東電OL殺人事件』を読み終わった。サンデル先生が忘却の彼方に行ってしまいそうな予感が大である。


相撲、まーたまた大変で変態なことになっとりますなあ。メールというかなり直接的な証拠が出てきちゃったから今回は流石に「八百長はない」とは言えないでしょう。それにしても、なんであんなに直接的な表現にしたのかねえ。「まっすぐ突っ込んでいくから」て。せめて「つっすぐにまっこんでいくから」くらいのことを書いたらどうなんだ。


私が個人的に相撲における八百長の存在を確信したのは、まだ高校生の時だったか、若乃花貴乃花の優勝決定戦を見た時だった。兄弟だからというのは確かにやりにくかろうが、あまりにもわざとらしい決着で、それまでも週刊誌に書き立てられていた相撲の八百長が、(どのくらいの人数の力士がやっていたかは別にして)存在するであろうなということは分かった。


どうでもいいが、若乃花が勝ったあの時、『北斗の拳』のジャギのセリフ「兄より優れた弟など存在しねえ!」が頭に浮かんだ。でもすぐに、優勝回数では完全に弟が上回ってるし、こりゃあてはまらねえやと思いなおした。


最近続編が出た『ヤバい経済学』という本でも著者のスティーブン・D・レビットという人が、統計的に見て相撲には八百長が存在するとしか考えられないということを書いていた。随分前に読んだものだから、スゲーうろ覚えだけどこういうことだ。千秋楽で、8勝6敗の力士と7勝7敗の力士が取り組む。すると、統計的にはとても考えられないような確率で星が五分の力士の方が勝つ。そんな感じ。


これは、今日仕事の帰り途で思いついたこと。アメフトと相撲は、巨漢がぶつかり合うという点が共通している。ワシントンポスト紙がある記事で使用したデータによると、NFL(アメフトのプロ)の平均選手寿命は何と3.5年だという。力士の選手寿命(と言っていいのか分からんがね)については特に公になっているデータはないみたいだけど、感覚的には3.5年よりは長かろう。


NFLはレギュラーシーズンの試合数は16試合。相撲の本場所の1年間の取り組み数は90。アメフトは1試合の中で何回もコンタクトがあるけど、 1プレーの時間はそんなに長くないし、相手を倒さなければいけないわけじゃないから、何となく身体への影響度的には相撲の方が高いような気がする。あと、相撲は一応稽古もしてるからね。


プロになる年齢を考慮に入れたとしても、力士の選手寿命は長い。30代後半でも番付上位でやってる人はいるしね。アメフトならクォーターバックくらいじゃないの、30代になってもやれるポジションなんて。


まあ、何がいいたいかと言いますと、「冷静になって考えれば、八百長があるなんてすぐに分かるでしょ」ってことですよ。だって、稽古も入れたらほぼ1年中体重100kgの巨漢とばっかんばっかんぶつかってるわけでね。どっかで加減しねえと体がもつわけないべ。


あんまり詳しくないんだけど、昔の相撲(江戸時代かな?)には勝ち、負けの他に「預かり」というものがあったらしい。本当に微妙な感じの取り組みについては、あえて勝敗を決さずに、引き分けとしていたんですねえ。「週刊文春」に連載されている『ホリイのずんずん調査』で、堀井憲一郎は「昔の日本は、白と黒を敢えて決めないということをしていた」という意味のことを言っていたが、納得です。


大体さ、相撲って元々はスポーツじゃないでしょ?スポーツっぽくなっちゃったってだけでさ。


まあ、全てのスポーツや格闘技から八百長が根絶されることが理想ですよ。それに、相撲やその他の格闘技以外については、八百長は仕組むのも大変そうだし、実際そんなに頻繁にはないんでしょう。でも、そのスポーツや格闘技の試合において八百長があったかどうかというのは、究極的には関わった当事者、否、もっと言えば選手自身しか分からないことだよね?でだ。私は、こう思うのだ。


八百長か否かと、その試合が面白い・感動的かは存外関係ないのでは?」


ディスプレイの向こうでこれを読んで憤怒の形相になっているあなた、ごめんなさい。しかしですよ。そりゃあ、素人でも分かっちゃう粗ーい感じの八百長やられたら興醒めですけど、劇的な幕切れやまさかまさかの大逆転に実は天才的芸術的八百長が働いていないとは言いきれないでしょう?尤も、その天才的芸術的八百長によって凄い面白かった試合も、八百長バレたらその後は「あーあ」って感じになりますけどね。だが、バレるまでは最高の試合。


繰り返しになるが、八百長が根絶されるのは理想だと私も思います。でも、私は悲観主義者だから、八百長がスポーツ界から存在しなくなる日は来ないと思うので、心の片隅に「もしかしたら…」というのを一応保管しておくつもりです。はい。