非リア充どもについて考える

2週間前くらいにアサヒの「AERA」に秋葉原無差別殺傷事件の被告についての記事が載っていた。何でも、当初被告が掲示板に書き込みをしていた内容と法廷での供述に随分異なる点があるという話だ。まあアヘラ様はそこから無理矢理派遣切りの話に持って行こうと必死で、笑えたね。以下、記憶を頼りに書いているから実際とは違うかもしれないが、大体は合ってるとは思う。


例えば、こんな書き込みがある。

ニートでもDQNでもイケメンなら彼女ができますから大丈夫です。不細工な私には絶対にできません」
「ブサイクには人権がないということです」

が、公判では、「自分のことを特に不細工だとは思っていない」という内容の供述をしている。公判での供述に対し、それまで被告にシンパシーを感じていた一部の人が「失望」している、というのがアヘラの記事。他にも、本当は友人と二人で旅行していたにもかかわらず掲示板には一人旅をした、という内容を書いていたこととかが記事にあった。


私は真面目にニュースを追いかけてないからよく知らないけど、この被告の犯行直後にその行動を称えるネットの住人がいたようだ。それは、逮捕された被告についての断片的情報の報道を目にして、「自分とそっくりじゃないか」と感じた人たち。非正規社員、友達なし、彼女なし、ネット大好き。


被告が起こした事件は全く言語道断で、さっさと下のビデオのように拷問しながら死刑にしちまえと思うものの、まあ、非正規社員という境遇には同情の余地はある。そこは改善しなければならない問題ではある。ビデオ↓

これで少しは遺族の気も晴れる。


しかし、事件を起こした動機は、大好きな掲示板をなりすまし等で「荒らされ」たので、事件を起こしてそれが報道されることで、なりすました人間に嫌がらせをやめてほしいということを伝えたかったことなんだと。左翼はガックリきただろうねえー。


事件の被告のような境遇の奴らは、リア充(リアル=現実生活、が充実している人)をネットで揶揄し、また自らを卑下するが、それと同時に社会では少数の自分たちを特別視している。そいつらは山奥で隠遁する仙人にでもなったつもりなのか、友人がいて趣味もある大多数の人々を見下している。ただ本物の仙人と違うのは、全員の庵に光回線が引いてあって、無線LANでネットに繋がり「お友達ごっこ」をやってるってところ。


言ってることがおかしいかもしれないが、私は別に非リア充どもの存在を否定はしない。そういう人との付き合い方が好きならそうすればいい。ただ、そのお友達ごっこの「場」はたったひとりのなりすましごときでぶっ壊れるような脆弱なものなのだ。被告がその事態に直面した時に取るべき行動は、必死でなりすましを駆逐するか、さもなければ別の「場」に移ることであったはずだ。嫌なら移れ。それがネットの利点ではないか。


それができなかったのは、つまりその掲示板の住人に何か友情めいたものを感じていたからに他ならない。やはりお前らはこっちを山から見下ろしているつもりで、実際は暗い海底から海面を見上げているだけなのだ。


このご時世、同好の士を見つけるのなんて簡単だ。大好きなネットを使えばいいじゃないか。ネットがなかった昔ならいざ知らず、今やSNSにはどんなニッチな趣味嗜好のコミュニティも存在する。それを足がかりに実際の友人を作ればいいじゃないか。


リア充どもがそんなことを知らないわけはない。それでもあいつらが友人を作らない理由。それは恐らく「色々面倒くさいから」。同好の士で集まっても、性格の合う合わないとか、意見の合う合わないとか、友人ならではのお付き合いとか、ネットからすりゃ面倒なこともある。


でも。全体で見ればプラスになるはずなんだよ。現時点でのネットは、いまだ現実世界の人づきあいに劣ると言わざるをえない。見えない。話せない。触れない。書いて読むだけ。情報はやりとりされるが、その場に発生する雰囲気やそこにいる人の何気ない所作の機微は、ディスプレイからは立ち上ってこない。そして、その雰囲気や機微を感じることこそが、友人を持つことの醍醐味だ。と、思う。私は。


ネットなんて、たまー―――――――――――――――――に良いことが書いてある便所の落書きくらいに思ってないとダメだろ。期待してはいかんのだよ。


世の中に不満があるなら自分を変えろ!!それが嫌なら、耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ!!…と、『攻殻機動隊』で誰かが言っていた。